喉頭機能外科 : III 発声障害のメカニズム : 実験 8 声帯粘膜の移動性に関する実験
: 4 声帯粘膜の移動性
: 5 声門における乱流雑音


実験 8 声帯粘膜の移動性に関する実験

実験目的

声帯粘膜の移動性により声帯は上唇下唇の二部分に分れ位相を異にし振動する. 下唇が上唇より60°近く早く解放, 閉鎖を始める (広戸, 石坂). このメカニズム (2質量振動方式) により声帯は極めて振動し易くなる. 粘膜の移動性が失われると, 声帯は1質量として振動するため振動し難くなる. 臨床的にも実際 嗄声患者で, 特に声帯萎縮, 瘢痕, 声帯肥厚, 声帯炎症, 浮腫, 癌などで粘膜波動が見られない事が屡々ある. 粘膜移動性低下は嗄声の一つの大きな原因と考えられる.

本実験の目的は粘膜移動性の程度とそれに影響を及ぼす因子を探索する事である.

実験材料

人屍体より得られた3新鮮摘出喉頭.

実験方法

一側声帯の対応部位に声帯の厚みと同程度の吸引管を置き声帯を吸引, 声帯の吸引される圧, ならびに陰圧測定部と声帯との距離を種々の条件下に測定した. 実験方法の概略は図50の如くである.

A〕:声帯が吸い寄せられる距離の測定実験:吸引管と圧測定用細管 (19号注射針) の距離は一定 0.2mm とし, 一定条件で持続吸引, 声帯を階段状に漸近せしめ, (1) 声帯が吸引され始める (陰圧方向に膨隆しはじめる) 瞬間ならびに, (2) 吸引により声帯が圧測定子 (陰圧ケ所) に接着する瞬間を測り, その際の声帯圧測定子間距離を測定した. このためにはデータレコーダと映画に共通始動シグナル (始めに一旦声帯と注射針を接触せしめた後離す) を与える事により同期をとり, 両所見の比較分析を行なった.

詳細な実験条件データについて述べれば吸引管は長径 4.7mm, 短径 1mm, 圧測定用針は19号注射針, マイクロマニピュレーターは1目盛が 0.005mm (5ミクロン) の移動に相当し, 0.025mm ないし 0.05mm ずつ階段状に静止期を移動期より長くとる様移動せしめた. 各部分の固定を厳重にするため連結ケ所は石膏で固めた. 喉頭は垂直半切し, 輪状軟骨を固定した. 接触の瞬間は電気抵抗の変化をテスターでモニターし決定した.

実験条件

  1. 甲状軟骨前端に 0gr 荷重の声帯弛緩状態
  2. 同 20gr で声帯中等度緊張
  3. 〃 50gr で声帯高度緊張
  4. 声帯乾燥後同 0gr 荷重
  5. 〃 20gr 荷重
  6. 声帯遊離縁粘膜下 (浅い) にエリコン 0.3cc 注入後

甲状軟骨前端荷重により声帯は延長かつ緊張するが同時に前傾する, 従って声帯を固定した支持器自身を回転する事により吸引管との相対的関係は変らぬ様補正を行なった.

実験結果

声帯粘膜が吸引により圧測定針に接着した距離は表4の如くである.

考按

声帯粘膜の移動性が声帯振動にとって重要な事は臨床的にも充分認識されて来たが, 粘膜移動性を客観的に測定する事は仲々困難であり, 文献的にも未だ報告を見ない. 移動性を単一指標で示す事は目下困難であるが, 相対的にしろその概略を把握することは声帯振動メカニズム, とくに病的声帯振動メカニズムを理解するために重要な資料となる. 我々の実験の結果, 次の事が明らかになった

  1. 声帯緊張の増加と共に声帯粘膜移動性は低下する.
  2. 声帯乾燥は声帯粘膜移動性を低下せしめる.
  3. 声帯の過度腫脹は同様声帯粘膜移動性を低下せしめる.

臨床的意義

1) 声帯緊張の増加とともに声帯粘膜移動性は低下する.

この事はこの実験をまつまでもなく臨床的にもまた理論的にも (石坂), 充分予想されていた所である. すなわち胸声では粘膜波動が見られるが裏声ではこれが見られず1質量として振動する. 前筋収縮により声帯が伸張すると, 主として粘膜のスチフネスの増加により (他に声帯筋, 弾性円錐のスチフネスの増加, 厚みの減少・質量の減少も伴うが) 粘膜移動性が減少するものと考えられる.

声帯が過緊張の状態では, この様に粘膜移動性は減少し1質量として振動するので, 振動し難くなる. 振動さすためには非常に大きな声門下圧を要する様になる.

心因性の失声症あるいは緊張性失声症で声が出ない場合, 声帯は一見白色正常で声門間隙もわずかにも拘らず全く声が出ない, あるいはわずかの気息性音声のみを発する事が頻々ある. これは声帯過緊張によるスチフネス増加自体の他に粘膜移動性低下1質量振動型式という事で振動し難くなっている. この条件で声帯を振動せしめるには大きな声門下圧を要するにも拘らず, かえって心因性失声症では呼吸は浅く呼気努力が弱くなっている. 声が出ない筈である. 過緊張性失声症の治療については別項に詳しくのべるが, 原則的には過緊張をとる必要 (スチフネスの減少を計る) があり, 甲状軟骨形成術III型もその有力な手段の一つである.

2) 声帯を乾燥さすと粘膜移動性は低下する.

摘出喉頭で音声を発生きすためには声帯が適度に湿っている必要がある. 乾くと声が出なくなる. これも主としてその原因は乾燥→粘膜移動性減少 (スチフネス増加) →1質量振動様式→振動困難となるものと考えられる. 声帯が異常に乾燥した状態は声帯癌の放射線治療後の声帯に屡々みられる. この際の高度気息性嗄声にはこの乾燥→粘膜移動性低下の要因が (瘢痕化の要因もあろうが) ある程度は関与しているものと思われる. 声帯をたえず湿った状態に保つ事は良い声を出す上に極めて重理な要因の一つといえる. 声帯を湿潤させる粘液腺は喉頭室 (モルガー二氏洞) にあり, 喉頭内腔手術に際してはこの事も考慮に入れるべきであろう.

3) 声帯の腫脹粘膜移動性を低下せしめる.

声帯が腫脹すると粘膜は外側に伸展されスチフネスは増加, 粘膜移動性が失われ, やはり1質量振動型となってしまう. 急性喉頭炎の際の嗄声のメカニズムについては勿論多要因が関与していようが, 声門閉鎖不全 (Ag0) は軽度と考えられ, 主として粘膜移動性の低下消失, スチフネスの増加が主因をなし, その他質量増加, 減衰率増加も関与しているのではないかと考えられる.

粘膜移動性に関して注意すべき事は, 粘膜移動性を決定するのは, 1) 組織学的特性と, 2) 機械的条件という事である. 勿論両者は相関連しており, 切りはなせるものではないが. 手甲 (図51, 52) を例にこれを示すと手甲の皮膚はつまみやすいが手掌皮膚はつまみにくい. 皮下と下部組織との結合が疎か密か, つまり組織学的特性にもとづく差である. 手を握ると手甲皮膚は伸展され, また皮下に生食液を注射しても同部皮膚は伸展されつまめなくなる. つまり組織学的結合の疎密以外に外側 (皮膚) がたるんでいる (声帯でいえば声帯筋が収縮し粘膜がたるむ) 事が条件である.

治療という観点から, 1) の組織学的特徴すなわち密な組織学的結合を疎にする事は極めて困難で, 手術的侵襲は一般に粘膜下瘢痕を生じ, ために粘膜はますます移動性を失うであろう. 結局現段階で粘膜移動性を多少とも増加せしめ得るのは, 組織学的原因によらず外的要因 (過緊張) による粘膜移動性低下の場合に限られ, 声帯弛緩法, 例えば甲状軟骨形成術III型による以外に方法はない.


【まとめ】

声帯粘膜の移動性が重要な理由

  1. 声帯粘膜移動性により声帯上唇ならぴに下唇が位相を異にして振動する事が可能となる. その結果, 発声時 (声門閉鎖期) 声門下部に大きな陰圧が発生し声帯吸引閉鎖を助け, 声帯は振動しやすくなる.
  2. 声帯粘膜移動性が大きい場合, スチフネスは小で小さな質量を吸引するのだから, わずかな陰圧でも粘膜を吸引, 声門を閉鎖しうる.

声帯粘膜移動性に関与する因子

  1. 組織学的特徴 (粘膜と粘膜下組織との結合度)
  2. 機械的条件 ― 声帯緊張度, 声帯筋収縮度, 声帯粘膜の余裕, 乾燥度など)

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Last update: March 16, 1999